長崎山登り好きの登山日誌

沢山の山に囲まれた港町「長崎」。世界三大夜景にも選ばれた長崎の魅力と、長崎の歴史、山、海の自然を記録するブログです♪

長崎おくんちの裏側で・・・「犯科帳より」

こんにちは('ω') お供です!

 

今回も犯科帳の中で、長崎くんちの時に起こった事件を二つ紹介したいなと思います。

長崎くんちとは、年に一度10月7日から9日の三日間行われる「諏訪神社」の祭礼で、1634年(寛永11年)から始まり、「重要無形民俗文化財」にも指定されている歴史あるお祭りです。

 

そんな、華やかなお祭り行事の裏側で起きた騒動が、二つほど記録されていました。(*_*)

 

「丸山町の踊り」

 丸山町の踊りは「天下の花街」として知られていた町の出し物で、みんながそれに見とれていました。「久蔵」もまるで自分が出したかのようにそれに見とれていました。

 しかし、そのそばで見ていた小島郷の「安次郎」は「つまらない踊りだな」とぼやいた。

 それを聞いて怒った久蔵は、何も言わず、いきなり安次郎を殴った。

 殴られた安次郎はすぐ殴り返そうとしたが、周りには丸山のものがすぐに集まって来たので、分が悪いと思い、人込みの中に逃げ出した。

 その後も腹の虫がおさまらない安次郎は、後日、久蔵が出島に日雇いの仕事にでる所を襲い、木刀などで殴りつけてボコボコにした。

 それを聞いた丸山のもの達は、小島郷に押しかけ、お互い数人の負傷者が出るほどの大ゲンカとなった。

 ケンカのふ発端となった久蔵と安次郎は、喧嘩両成敗として共に「押込め処分」となった。

 

「お饅頭」

 小川町の久七と吉蔵は、町の踊りに付いていて、市中回っていた。そんな中

、町役人から「踊り子たちがお腹を空かしているようだから、饅頭を買ってきて欲しい」と吉蔵にお金を渡して使いを頼んだ。

 饅頭を買ってきた吉蔵は、踊り子たちに饅頭を分けていると、少し余りそうだったので、一緒について回る子供たちにもあげようと思い、少しばかり懐にしまった。

 それを見た久七は、吉蔵が数をごまかそうとしていると思い、「くだらない真似はよせ」と吉蔵をなじった。

 いかにも盗人のような扱いをされた吉蔵は「生意気なこと言うな」と怒り、殴りかけた。

 しかし久蔵はそれをかわし、とっさに脇差を引き抜いて切りつけた。そのまま血まみれの大ゲンカとなり、踊りも祭りもめちゃくちゃになった。

 吉蔵は「押込処分」となり、久七は治療費を弁償することになった。

 

昔だから気性が荒いのか・・・とも少し思いましたが、現代でもハロウィンでトラックひっくり返す輩いたなぁと思い出しました。(;´・ω・)

 

今も昔も、お祭りごとは楽しいですが、テンション上がってハメを外しすぎないようにしないといけませんね('◇')ゞ

 

 

 

長崎「犯科帳」より 極刑を科された女性

こんにちは!お供です('◇')ゞ

 

 今回は「犯科帳」から、当時では珍しい、女性が「極刑」(獄門)を科せられた数少ない例を2つほど紹介します('Д')

 

 今では考えられませんが、当時女性は人権があまり認めてもらえませんでした。

ゆえに、女性が罪を犯した場合は15歳以下の「幼年」と同等に扱われており、妻が夫に隠れて罪を犯していた場合、夫の方が「管理不行届き」として重い罪が科されていました(*_*)

 

 そんな中で、女性が極刑なった例があるのですが、二件とも「幼児殺し」という何とも残酷な事件でした・・・

 

養子の仲介と思わせて・・・

 「勝山町の伊兵衛」という男が「みつ」という女性の口添えで、「今魚町の仁兵衛」の家に養育料銀80目で娘を預けました。

 後日「みつ」が仁兵衛のもとに訪れ、「その子を浦上村の方に養子に出すことになったので、先日払った養育費のうちの銀15目ほど返して欲しい。」と言いました。

 仁兵衛はそれで済むなら「儲け」と思い、特に調べもせずに銀とその子を引き渡しました。

 受け取った「みつ」は金はそのまま懐にいれ、子は新大工の橋の下に捨てました。

 「みつ」は西坂で獄門になり、仁兵衛はただ欲にかられただけで「子を捨てる相談」をした訳では無かったので、同じ日に西坂で死罪となりました・・・。

 

天草者の「あき」

 「小島郷のとめ」に女の子の赤ん坊が生まれました。そこに天草ものの「あき」という女性がやって来て、「西上町の文蔵が養子が欲しいと言ってるからその子を譲ったらどうか?」といいました。

 とめ親戚の「善七」に相談したうえで、衣類と銭一貫文を添えて引き渡しました。

しかし、「とめ」も「善七」もその「文蔵」の事は、家も知らなけれ、会ったことも無かったので、使いの者を「あき」につけさせた。

 西上町に着き、「あき」はとある家の戸口まで連れていくと、「こちらが文蔵の家です。」と言い、使いの者をだまして帰らせました。そして「あき」は「銭屋川」に赤ん坊を捨てました・・・。

 翌朝、何かおとずで気がかりになった善七は「あき」のもとを訪れ、赤ん坊の様子を聞いたところ、「あき」がしどろもどろとなったので訴えを起こした。

 「あき」は市中引き回しのうえで、西坂で獄門となりました。

 

残酷でキツイ話ですね(;´・ω・)

いつの時代でも子を殺すことは許せません。この時代でもそう思う人は多いみたいで、罪が軽くなるはずの女性でも極刑になりました。

時代の背景がうっすら見えてくる「犯科帳」ですが、まだまだ沢山のエピソードが詰まっています。また少し紹介出来たらなと思います('ω')

つたない文章ではありますが、ここまで読んでいただいて有難うございます('◇')ゞ

 

 

 

 

 

江戸時代の長崎の生活模様がつづられた「犯科帳」

こんにちは、お供です('◇')ゞ

 

今回は長崎の「犯科帳」についてのお話です。

 

時代劇や文庫本などにもとりあげられているこの「犯科帳」ですが、江戸時代200年にわたる長崎奉行所の記録であり、1666年から、1867年までの刑事判決が記載されています。

 

原文の文章については、「書役」御家流で記され、書き始めから書き終わりまで一つの「型」があります。

 

御家流とは鎌倉時代に京都で生まれた書体で、当時の幕府が「公文書」にはこれを用いることとしました。

原本は全145冊で、漢文のように殆どが漢字で記されています。

 

現在は「森永種夫」氏が約2年の月日をかけて浄書された「犯科帳」全11巻にて刊行されています('ω')

 

戦国の時代より長崎は、キリシタンの街」「貿易の街」としての地位を確立しており、江戸時代のキリスト教弾圧によって取り締まりが行われましたが、それでも貿易の街として唐蘭2国の貿易が盛んに行われていました。

 

そういうこともあり、この「犯科帳」の多くが「抜荷」といわれる「密貿易」の取り締まりで、「密貿易」では薬、衣類の取引が多かったといいます(;´・ω・)

方法としては様々で、二重底の船に隠してるものや、唐人屋敷などにある船の「修理場」を利用したりと多様である。

もちろん警戒は厳重で、唐人に近づくことも難しかったため、時には「役人」「通詞」を買収したり、「遊女」を使ったりしていたそうです。

 

「犯科帳」には、人々がどういった生活をしていて、どのような考えを持っていたかが良く書かれていて面白みがあり、

時には罪人の白状したそのままを記載されていたりもして、結構生々しく記されたりもします。

 

罪状が重いものから、「お咎めなし」になったものもあったりしますが、それぞれに物語があって、読んでいると色々考えさせられました。

次回からその中を少し紹介できればなと思います(^^♪