長崎「犯科帳」より 極刑を科された女性
こんにちは!お供です('◇')ゞ
今回は「犯科帳」から、当時では珍しい、女性が「極刑」(獄門)を科せられた数少ない例を2つほど紹介します('Д')
今では考えられませんが、当時女性は人権があまり認めてもらえませんでした。
ゆえに、女性が罪を犯した場合は15歳以下の「幼年」と同等に扱われており、妻が夫に隠れて罪を犯していた場合、夫の方が「管理不行届き」として重い罪が科されていました(*_*)
そんな中で、女性が極刑なった例があるのですが、二件とも「幼児殺し」という何とも残酷な事件でした・・・
養子の仲介と思わせて・・・
「勝山町の伊兵衛」という男が「みつ」という女性の口添えで、「今魚町の仁兵衛」の家に養育料銀80目で娘を預けました。
後日「みつ」が仁兵衛のもとに訪れ、「その子を浦上村の方に養子に出すことになったので、先日払った養育費のうちの銀15目ほど返して欲しい。」と言いました。
仁兵衛はそれで済むなら「儲け」と思い、特に調べもせずに銀とその子を引き渡しました。
受け取った「みつ」は金はそのまま懐にいれ、子は新大工の橋の下に捨てました。
「みつ」は西坂で獄門になり、仁兵衛はただ欲にかられただけで「子を捨てる相談」をした訳では無かったので、同じ日に西坂で死罪となりました・・・。
天草者の「あき」
「小島郷のとめ」に女の子の赤ん坊が生まれました。そこに天草ものの「あき」という女性がやって来て、「西上町の文蔵が養子が欲しいと言ってるからその子を譲ったらどうか?」といいました。
とめは親戚の「善七」に相談したうえで、衣類と銭一貫文を添えて引き渡しました。
しかし、「とめ」も「善七」もその「文蔵」の事は、家も知らなけれ、会ったことも無かったので、使いの者を「あき」につけさせた。
西上町に着き、「あき」はとある家の戸口まで連れていくと、「こちらが文蔵の家です。」と言い、使いの者をだまして帰らせました。そして「あき」は「銭屋川」に赤ん坊を捨てました・・・。
翌朝、何かおとずで気がかりになった善七は「あき」のもとを訪れ、赤ん坊の様子を聞いたところ、「あき」がしどろもどろとなったので訴えを起こした。
「あき」は市中引き回しのうえで、西坂で獄門となりました。
残酷でキツイ話ですね(;´・ω・)
いつの時代でも子を殺すことは許せません。この時代でもそう思う人は多いみたいで、罪が軽くなるはずの女性でも極刑になりました。
時代の背景がうっすら見えてくる「犯科帳」ですが、まだまだ沢山のエピソードが詰まっています。また少し紹介出来たらなと思います('ω')
つたない文章ではありますが、ここまで読んでいただいて有難うございます('◇')ゞ